大判例

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東京地方裁判所 平成7年(ワ)12631号 判決

原告

耿諄

外一〇名

右一一名訴訟代理人弁護士

新美隆

内田雅敏

鈴木宏一

芳永克彦

清井礼司

上本忠雄

川口和子

丸山健

伊藤治兵衛

高橋耕

水谷賢

金敬得

川田繁幸

荘司昊

足立修一

原告耿諄訴訟代理人弁護人

藤沢抱一

細谷裕美

上本忠雄訴訟復代理人弁護士

渡辺智子

被告

鹿島建設株式会社

(旧商号・株式会社鹿島組)

右代表者代表取締役

宮崎明

右訴訟代理人弁護士

宇津呂英雄

伴義聖

石原修

宇津呂公子

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

三  本件につき、原告らのために控訴の附加期間を六〇日と定める。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告らに対し、各五五〇万円及びこれらに対する平成七年八月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

第二  事案の概要

本件は、第二次世界大戦中、原告ら又はその被相続人が、被告により秋田県の被告花岡出張所(以下「花岡出張所」という。)に強制連行され、強制労働及びこれに伴う虐待を受け、肉体的精神的損害を被ったとして、被告に対し、不法行為ないし安全配慮義務不履行に基づく損害賠償を求める事案である。

一  原告らの主張

1  原告中澤一江、同楊彦欽及び同孫力を除くその余の原告ら並びに李克金(一九九六年三月三一日死亡)、楊建庭(一九四五年七月七日ころ死亡)及び孫基武(一九四五年七月二、三日ころ死亡)(以下、これらの者を「本件労働者」という。)は、第二次世界大戦中、中国国民党軍又は八路軍に所属した兵士又はその協力者であるが、日本軍により捕虜とされあるいは逮捕された後、花岡出張所に強制連行された中国人九八六名の一部であり、原告中澤一江は李克金の妻、同楊彦欽は楊建庭の二男、同孫力は孫基武の長女である。

2  被告は、日本政府による一九四二年(昭和一七年)一一月二七日の閣議決定(「華人労務者内地移入ニ関スル件」)及び一九四四年(昭和一九年)二月二八日の次官会議決定(「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」)を受けて、花岡出張所ほか日本国内の四事業所に中国人を強制連行したが、これは、いずれも一九四一年(昭和一六年)七月に北京において設立された華北労工協会との間で、一九四四年(昭和一九年)五月八日、同協会が「保管」し「供出」する中国人を被告が「使用」するとの内容の「労工」供出契約の名の下に、被告において日本への強制連行を行ったものである。

すなわち、当時の日本政府は、国際法を無視して中国人俘虜等を不足した労働力の補充に充てるべく、日本軍の作戦中に中国人労働力の獲得を取り込み、日本軍が捕獲した俘虜等の教育、訓練と、そうした俘虜等を労働力として供出する業務を行うことを目的とする組織である華北労工協会を設立した。そして、同協会が管理する俘虜収容所に収容された俘虜等の中国人は、同協会から被告を含む企業に対し供出斡旋され、これを受けた企業は、これを日本国内(内地)に移入した。

3  被告は、本件労働者を含む中国人を、花岡出張所に強制連行し、花岡川大森川改修工事に強制的に従事させ、別紙「本件労働者の被害事実」記載のとおりの労働強制及び虐待を繰り返したものであるが、右行為は、次のとおり違法というべきである。

(一) 不法行為

(1) 被告は、日本政府が本件労働者の元俘虜という身分を労工に変えたことを知悉しながら、華北労工協会に対し「募集費」を支払い、本件労働者の身柄の引渡を受けて花岡出張所に連行し、暴力の威嚇によって強制的に過酷かつ非人道的な奴隷労働に使役したが、これは、ハーグ条約(「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」)四条、六条及び七条、ジュネーブ条約(「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」)二条、一一条一項、二九条等ないし奴隷条約並びに強制労働ノ禁止ニ関スル条約に違反する。

これらの条約は、私人たる被告をその名宛人とするものではないが、これら条約に定められた俘虜及び民間人に対する取扱の原則は、国際的な承認を得た規範として国内法における公序あるいは条理の内容を形成するものであるから、不法行為にいう権利侵害あるいは違法性の解釈原理として機能するものと解すべきである。したがって、これら条約に違反して本件労働者に別紙「本件労働者の被害事実」記載のような苦痛、不利益を加えてその権利を侵害した被告の行為は、違法に他人の権利を侵害して損害を与えるものとして民法上の不法行為を構成する。

(2) ところで、消滅時効の起算点は、権利行使が現実に期待できる時と解すべきであるが、第二次世界大戦後の日中関係や中国国内の事情によれば、原告らが、本件不法行為に基づく請求をすることは現実には不可能であり、これが可能になったのは、日本政府が中国人の「移入」が強制連行であったことを承認した一九九四年(平成六年)六月二二日であるというべきであり、この日をもって消滅時効の起算点と解すべきである。

(3) 被告は、一九九〇年(平成二年)七月五日、原告耿諄ら被告を訪問した花岡出張所に強制連行された中国人生存者及び遺族との共同発表において、被告の法的責任を認めているのであるから、この時点において時効利益を放棄したものと解すべきである。被告の不法行為は、前記のとおり戦争犯罪として残虐性が高度であること、被告は本件労働者に対する不法行為によって事業利益を得た上、日本政府から補償金まで得ていること、被告は、不法行為の関係資料の隠滅を図り、虚偽資料を作成したことにかんがみると、被告の消滅時効の援用は、権利の濫用であって許されないと解すべきである。

(4) 民法七二四条後段の規定は除斥期間に関するものであるとしても、除斥期間の適用に際しては、信義則違反や権利濫用理論を適用することが認められるべきであるところ、(2)及び(3)で述べたような事情に照らすと、本件において被告が除斥の利益を受けることを主張するのは、除斥利益放棄の撤回にあたり、あるいは、信義則に違背し、権利の濫用であって許されないというべきである。

(二) 安全配慮義務違反

(1) 本件労働者と被告との間には、いかなる意味においても、労働力の提供に関する契約関係もしくは被告が労働力の提供を受けることを正当化すべき法令上の根拠は存在せず、強制労働の実態は単なる組織的犯罪行為であるというべきことは、2及び3(一)記載のとおりである。

(2) しかし、被告が本件労働者の起臥寝食の一切を支配し、本件労働者を使役して利得を得た以上、被告は、本件労働者の生命身体の安全はもとより、本件労働者が安全かつ適当な環境を享受できるように必要な措置を取るべき信義則ないし条理に基づく義務を負うものといわなければならない。

また、華北労工協会と被告との間で締結された「労工」供出契約は、その第二条において「三十三年度第二十二回(訓)華人労務者対日供出実施細目」(以下「実施細目」という。)に基づく「労工」の使用条件を定めているが、その内容は、契約期間、作業種類、作業組織、賃金、作業用具の負担者、就労時間、宿舎施設、生活必需品の調達、衛生施設等にわたり、本件労働者に対する安全配慮義務を被告が負うことを内容としたものであって、第三者のためにする契約に該当すると解すべきである。右供出契約は、日本政府の指導の下、被告と華北労工協会が合法性の外形を作出しようとして締結したものであり、契約当事者においてこれを履行する意思がそもそもあったかどうかは極めて疑問であるが、被告の側から、右供出契約の効力について、それが法的外形に過ぎないことを理由にこれを否定することは、禁反言の原則に違反し許されないというべきである。そして、本件労働者は、被告に対し、右供出契約に基づいて花岡出張所に連行され、被告に使役されることについて同意した事実は一切存しないが、後記(3)記載のような内容の安全配慮を被告に対し繰り返し要求しており、受益の意思表示をしているので、被告は、本件労働者に対し、右供出契約に基づく安全配慮義務を負う。

さらに、被告は、華北労工協会から「労工」供出契約によって本件労働者を含む中国人に対する包括的支配権を譲り受け、本件強制労働に従事させる労務指揮権を有するに至ったものであり、この強力な支配従属関係から直接に安全配慮義務を根拠付けることができるし、また、本件労働者と被告との関係は、当時の国家総動員法体制下で、徴用された従業者が事業主とは直接的な契約関係には立たないにもかかわらず、政府の指示・命令に基づく従業条件によって労働関係上の権利義務が成立する場合と同様であると解し、本件労働者が日本本土に連行された時点から、実施細目の内容が被告と本件労働者を規律する(強制)労働関係の内容となり、被告が、本件労働者を含む中国人に対し、労働災害を未然に防止し、安全かつ健康を保護する義務を負ったと解釈することも可能である。

以上のように、被告と本件労働者との間には、労務提供に伴う指揮命令、使用従属関係が認められ、これは、直接の契約関係に準ずる法律関係が存在する場合に当たるから(最高裁昭和五一年(オ)第一〇八九号同五五年一二月一八日第一小法廷判決・民集三四巻七号八八八頁、最高裁平成元年(オ)第五一六号、第一四九五号同三年四月一一日第一小法廷判決・判例時報一三九一号三頁は、本件のような場合を含む趣旨を判示したものと解すべきである。)、被告の本件労働者に対する安全配慮義務が認められるべきである。

なお、判例が安全配慮義務を認めたのが戦後であるからといっても、戦前の労働法分野における学説の発展状況からして、本件に安全配慮義務を認めることができないとはいえない。

(3) 右の安全配慮義務の具体的内容は、本件労働者の生存及び生活面においては、① 本件労働者がその健康を維持し、労務の提供が可能な程度の体力を維持するに必要な程度の食料を支給すること、② 日々の労働による肉体的・精神的疲労を癒し、体力を回復するために必要な適当な環境を維持することのできる入浴設備、暖房設備を設置した宿舎を提供すること、③ 冬季にあっては寒気を遮断できる宿舎及び寝具を提供すること、④ 伝染病、皮膚病などの罹患を予防するために、定期的に宿舎・寝具等の十分な消毒を行うなどして衛生管理をし、疾病の際には十分な休養を与え、資格を有する医師の診察と治療を受けさせて、疾病を治癒することである。また、労務の提供過程においては、⑤ 気候及び労働環境に適応した衣服、靴等を支給して、収容生活に伴う苦痛の軽減措置を講ずること、⑥ 作業現場において現場指導員らが本件労働者に対して暴力を用いて労働を強制することのないように指導員らに対する教育及び監督を徹底し、暴力を用いた指導員を発見したときにはこれを速やかに排除して再発を防止すること、⑦ 加重な労働を強制することのないように、適宜休憩を与え、週に一日程度の休日を与えて疲労の蓄積と衰弱による疾病を予防することである。

(4) 然るに、被告は、これらの義務に違反し、別紙「本件労働者の被害事実」記載のとおり、本件労働者を強制連行した上、強制労働に従事させ、① 横浜法廷に提出された報告によれば、ドングリ粉を主な成分とする饅頭を一日あたり各自三個(合計で一三〇〇カロリー程度)という成人の基礎代謝量にも満たない極少量の食料を支給したのみであり、激しい肉体労働を行うどころか体重を維持することさえも不可能な飢餓糧食と言わざるを得ない状態で、本件労働者の健康を害し、② 宿舎(中山寮)には暖房設備がなく、入浴設備はあったものの入浴の機会を与えず、本件労働者の労働による疲労回復を図らず、③ 十分な寝具は与えず、宿舎も隙間だらけであったため、寒気により十分な睡眠が得られないままに任せ、④ 本件労働者が衰弱し、あるいは赤痢等の疾病によって就労が困難な状態に陥っても、休養を与えるどころか暴力によって就労を強制しただけでなく、仮病あるいは逃走防止を口実に食料を半減しさえし、⑤ 衣服は花岡出張所到着時にわずか一着を支給したのみで、冬季においても防寒着、靴下、手袋を支給することはなく、作業用の靴、長靴等は支給せず、本件労働者は厳寒期においても裸足のまま、水浸しの水路工事を強制され、寒さを防ぐためにセメント袋を体に巻いて作業することを余儀なくされるなど、過酷な環境での労働を緩和する努力を一切行わず、⑥ 現場指導員らがその感情の赴くままに日常的に本件労働者に暴力を加えることを放置し、リンチによる死者さえ生じたのに事態を改善せず、⑦ ほとんど休憩を与えず、ほぼ連日、一〇時間以上もの長時間労働を行わせ、休日についてはまったくと言っていいほど与えなかったために、衰弱あるいは疾病による死者を多く出し、本件労働者が、このままでは何時か被告に殺される旨推測するほどの強烈な死の恐怖をも与えた。

(5) なお、損害賠償請求権の消滅時効の起算点及び被告の消滅時効の援用が権利の濫用であって許されず、また、時効利益を放棄したものであることについては、(一)(2)及び(3)のとおりである。

4  本件労働者は右強制連行・労働強制等により筆舌に尽くしがたい苦痛を受け、また、その民族的矜持を蹂躙された。この肉体的及び精神的苦痛による損害は、一人当たり少なくとも五〇〇万円を下らない。

なお、原告らは、原告ら代理人弁護士に日本での訴訟追行を委任せざるを得ず、各原告について請求額の一割に相当する五〇万円の支払を約束したが、その全額が被告の不法行為ないし安全配慮義務違反と相当因果関係ある損害である。

5  よって、原告らは、被告に対し、不法行為ないし安全配慮義務違反に基づき、各五五〇万円及びこれらに対する不法行為の後であり、本件訴状送達日の翌日である平成七年八月二六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告の主張

1  原告らの主張1のうち、本件労働者が花岡出張所に移入された中国人であること、原告楊彦欽、同孫力及び原告中澤一江が、それぞれ楊建庭、孫基武及び李克金の法定相続人であることはあえて争わない。

同2のうち、被告が主張のような「労工」供出契約を締結し、本件労働者を含む中国人を花岡出張所に移入したことは認めるが、これが強制連行であったこと及びその余の主張は否認ないし不知。

同3以下の主張は否認ないし争う。

2  中華人民共和国は、昭和四七年九月二九日調印した「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」及び昭和五三年八月一二日署名、同年一〇月二三日発効の「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」(昭和五三年条約第一九号)により、我が国に対する戦争賠償の請求の放棄を宣言・確認している。原告らの本訴請求は、これらによって放棄されているものであるから、失当である。

3  原告らの不法行為の主張は、国際法違反による請求ということはあり得ず、単なる民法上の使用者責任の主張と解すべきであり、そうであれば、原告らの不法行為に基づく損害賠償請求権は、本件労働者を含む花岡出張所に移入された中国人が最後に博多港から中国へ向けて出港した昭和二〇年一一月二九日から三年を経過したとき、又は遅くとも日中平和友好条約が効力を発した昭和五三年一〇月二三日から三年を経過したときに時効により消滅しているので、被告は、平成八年二月一九日の本件第二回口頭弁論期日において、右時効を援用する旨の意思表示をした。また、本件については、原告ら主張に係る不法行為が昭和二〇年一一月二九日には終了していることが明らかであるから、同日から二〇年の除斥期間を経過した時点で原告らの請求権は当然消滅している。

4  原告らの安全配慮義務違反の主張については、戦後判例により創造された法理であって、戦中の国民総動員体制下における労働関係には適用されないと解すべきである。また、安全配慮義務違反による損害賠償請求権も、前述のとおり、昭和二〇年一一月二九日から一〇年を経過したとき、又は遅くとも日中平和友好条約が効力を発した昭和五三年一〇月二三日から一〇年を経過したときに時効により消滅しているので、被告は、平成八年二月一九日の本件第二回口頭弁論期日において、右時効を援用する旨の意思表示をした。

第三  当裁判所の判断

一  不法行為に基づく請求について

1  原告らのハーグ条約等違反の主張は、結局、被告による本件労働者の花岡出張所への強制連行及び同出張所での労働強制等が本件労働者の権利侵害にあたるとの民法上の不法行為(使用者責任)の主張であると解されるところ、原告ら主張によれば、最も中国への帰国の遅い原告張肇国においても昭和二三年三月には被告による日本への強制連行という状態から脱しているというのであるから、原告ら主張事実自体から、遅くとも昭和二三年三月末日の時点において、原告ら主張にかかる被告による強制連行、労働強制等の不法行為が終了していたこととなる。

2 民法七二四条後段は、不法行為に基づく損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり、被告の原告らに対する不法行為終了から本訴が提起された平成七年六月二八日までに既に四七年が経過しているから、原告ら主張の不法行為に基づく損害賠償請求権は、除斥期間(二〇年)の経過により消滅したというべきであり、原告らの右請求には理由がない。

3  なお、原告らは、第二の一3(一)(3)のとおり被告が法的責任を認める旨の共同発表を行ったことや被告の不法行為が戦争犯罪であり残虐性が高いこと等の事実に照らせば、被告が除斥期間経過による利益を受けることを放棄したと解すべきであるし、本訴において除斥期間の適用による利益を受けるのは権利の濫用である旨主張するが、除斥期間は、その性質上、援用ないし放棄の観念を容れる余地はないものと解すべきであるから(最高裁昭和五九年(オ)第一四七七号平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二〇九頁参照)、右主張は失当である。

4  よって、その余の点について判断するまでもなく、原告らの不法行為に基づく損害賠償請求には理由がない。

二  原告らの債務不履行(安全配慮義務違反)に基づく請求について

1 安全配慮義務とは、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるものである(最高裁昭和四八年(オ)第三八三号同五〇年二月二五日第三小法廷判決・民集二九巻二号一四三頁参照)。

ところで、右にいう特別な社会的接触の関係の前提としての「法律関係」の意義について本件のような労務提供の場面に即して検討するに、安全配慮義務は当事者の意思に関わりなく信義則上認められるものではあるけれども、労務提供に関して使用者の被用者に対する安全配慮義務が認められる根拠が労務指揮権等使用者が労働者の労務を受領し得る正当な法的地位の存在に求められ、これに付随する義務として信義則上一定の内容が具体的な安全配慮義務として要求されるものであることからすれば(前記最高裁昭和五〇年二月二五日第三小法廷判決、最高裁昭和五八年(オ)第一五二号同五九年四月一〇日第三小法廷判決・民集三八巻六号五五七頁参照)、右の「法律関係」が認められるためには、当該労働者が当該使用者の指揮監督の下に労務に服すべき明らかな契約関係があること、又は少なくともそれに準ずる直接の契約関係を観念し得る法律関係があることを要すると解すべきである。

2 原告らは、事実上の支配ないし管理関係があるにすぎないところにも「特別の社会的接触関係」の前提たる「直接の契約関係に準ずる法律関係」が観念でき、安全配慮義務が認められる場合があると窺われるような主張をしている(第二の一3(二)(2))が、1で述べたとおり、右主張は採用できない(原告らが前記主張箇所で指摘する下請労働者に対する元請企業の安全配慮義務を認めた裁判例については、少なくとも右のような法律関係を観念し得ないような場面についても「特別の社会的接触の関係」にあるとして債務不履行責任を肯定した趣旨と理解すべきものではない。)。

3  原告らが安全配慮義務の発生根拠として主張する「法律関係」は、結局において被告による中国からの強制連行及び花岡出張所における強制労働という支配の事実にすぎず、いずれも本件労働者が被告に対して何ら労務提供の意思を有しなかったことを前提にするものであるが、それが不法行為規範における義務違反の内容としての条理上の義務についての主張ということであればその趣旨を理解し得るものの、そのような義務の違反については除斥期間によって消滅したことは一で説示したとおりであるし、それが不法行為責任とは峻別された債務不履行規範における安全配慮義務違反についての主張ということであれば、被告と本件労働者との間の直接の契約関係ないしこれに準ずる法律関係についての的確な主張ということはできず、いずれも採用することはできない。

4  次に、原告らは、被告と華北労工協会との間の「労工」供出契約が第三者のためにする契約であり、本件労働者(第三者)の受益の意思表示の結果、被告には右供出契約に基づく安全配慮義務が生ずるとも主張しているので、この点につき検討する。

ところで、第三者のためにする契約とは、その法律効果の一部を第三者に帰属させるという内容の契約であり、当該契約における第三者のためにする約旨の存在が、第三者がその契約に基づき直接その契約当事者(諾約者)に対して特定の権利を取得するための要件であるというべきである(最高裁昭和四〇年(オ)第一三九九号同四三年一二月五日第一小法廷判決・民集二二巻一三号二八七六頁参照)。しかしながら、原告ら主張によれば、華北労工協会(要約者)と被告(諾約者)との間の右供出契約は、同協会が中国人を斡旋供出し、被告が華北労工協会に対し「募集費」を支払いこれを使用するというものであり、右判例の判示するところに従って検討すると、右供出契約の文言から第三者である本件労働者に取得させる権利及び本件労働者に権利を取得させるとの約旨ありとすることができない(この点、甲第四号証を検討しても、別異に解すべきものではない。)。のみならず、右供出契約が当時の日本政府の指導の下で合法性の外形を作出するために締結されたに過ぎないものであるとの原告らの主張に照らせば、右供出契約をもって本件労働者に被告に対する安全配慮義務履行請求権を直接取得させるとの約旨を黙示的に規定したものであるとも解することはできないというべきである。

さらに、原告らの主張によれば、本件労働者による受益の意思表示は、右供出契約による労務提供の負担も一括して甘受するとの趣旨をいうものではないことが明白であるから、この点、受益の意思表示について的確な主張がなされているということもできない。

したがって、右供出契約をもって安全配慮義務の発生根拠とする主張は失当である。

5  よって、その余の点について判断するまでもなく、原告らの債務不履行に基づく請求には理由がない。

三  以上の次第であるから、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文に従い、附加期間につき同法一五八条二項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官園部秀穗 裁判官齋藤繁道 裁判官原司)

別紙本件労働者の被害事実

一 原告耿諄(一九一四年九月二九日生)

原告は、国民党軍第一五軍に属する上尉連長(将校)であったが、洛陽戦一五日間の攻防で腹を撃たれて日本軍に捕まった。原告は、国際法上捕虜が受ける扱いについて多少知っており、日本軍に捕まった後、当然捕虜として処遇されるだろうと思っていたが、洛陽の西工臨時捕虜収容所に五日間収容された後、石家捕虜収容所に二〇日間置かれた後、「西苑」捕虜収容所に連行され、約一か月後、青島に送られ、船で日本に連行された。原告は、捕虜として日本に連行されたのであり、華北労工協会と「労工」として契約を結んだことはなく、被告から「賃金」を受け取って毎月サインしていたという事実も一切ない。原告は、日本へ連行される中国人集団(第一次)の大隊長として中国人の生活と労働全般の管理をし、現場を回って問題の処理に当たる任を命ぜられ、各中隊長から毎日の労役の報告を受け、被告から指示されたノルマに合わせて翌日の仕事内容や人数の分配を決める等の仕事をしていた。

被告の補導員らは、本件労働者を常に酷い態度で罵り、殴り、蹴っては奴隷のように扱い、雨でも雪でも、一日の休みもなく長時間の重労働を強制した。原告は、被告花岡出張所所長河野正敏に、食事の内容を改善するよう二回要請したが、二回目でようやく僅かに馬の骨と干した大根の葉が出ただけであった。

一九四五年(昭和二〇年)五月・六月に、第二次・第三次連行の中国人が来日した後、被告は、生産高を上げる名目で突貫期を設け、本件労働者を一六時間も働かせた上、食料も更に悪化させた。既に餓死と虐殺で一五〇人近くが殺されていたが、中国人の一人が全員の前で牛の性器を干した鞭で叩き殺されたのを契機に、このまま座して死を待つより潔く蜂起して死のうと決意し、同年六月三〇日に蜂起し中山寮から逃走したが捕らえられ、同年九月一一日、秋田地方裁判所で殺人首謀者として無期懲役の判決を受けた後秋田刑務所に服役していたが、同年一〇月、連合軍総司令部(GHQ)によって釈放された。原告は、蜂起事件の取調の際に受けた拷問で頭部に受傷していたため横浜法廷の証人として残留せず、一九四六年(昭和二一年)一一月に帰国した。

二 原告王敏(一九一九年六月二一日生)

原告は、山西省深極県三区の区政助理員を務めていたが、一九四四年(昭和一九年)四月一日、日本軍の特務機関に逮捕され、無極県の日本憲兵隊に九日間、石家荘捕虜収容所に十数日間置かれた後に北京の西苑捕虜収容所に転送され、更に青島から船で日本に向かい、同年八月ころ、花岡出張所の中山寮に送られ、第一次連行の二九七人とともに強制労働に従事させられた。

原告は、第三中隊第七小隊長代理として同小隊の隊員を率いて現場で強制労働に従事させられ、小隊全体の責任を負わされることとなった。

被告の補導員らは、工事現場だけでなく中山寮や往復の路上でも本件労働者を含む中国人を過酷に扱い、常に殴ったり叱ったりした。仕事のノルマが終わるまで中山寮に帰ることはできず、本件労働者はひもじさを堪えて労働を強いられたが、吹きさらしの中山寮では凍えた体を温めることもできず、雨でも雪でも、朝から晩まで一日の休みもなく働かされた。寒さと飢えと暴行のために、共に連行された二九七人のうち半年間で約半分が死亡した。

冬には、本件労働者は破れた夏用の単衣の着物を着たきりだったため寒さを凌ぐことができず、補導員に隠れてセメントの空き袋を紐で体に巻き付けたところ、補導員に見つかって現場で着物を脱がされ、極寒の中を裸で放置された。また、この極寒の雪の中、草履を履いただけの裸足で働かされたため、多くの中国人が凍傷に罹り、原告の足も凍傷になり、歩くのさえ困難なのに、補導員から何回も仕事が遅いと殴打された。

原告は、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日の蜂起に積極的に参加したが、捕らえられ、起訴はされなかったものの日本が敗戦するまで警察署に監禁され、同年九月ころ、中山寮に帰された。同年一〇月にGHQが中山寮に入り、本件労働者は帰国することになり、五三一人が同年一一月に乗船し、一二月に生家に戻った。

三 原告帳肇国(一九二一年四月一三日生)

原告は、一九四四年(昭和一九年)夏、国民党第一五軍第六五師団工兵排長として洛陽守備戦に従事中、日本軍の捕虜となり、西工捕虜収容所に収容された後、鄭州の第二監獄、石家荘の石門捕虜収容所、北京の精華園捕虜収容所、青島を経て同年八月、被告花岡出張所中山寮に連行された。

他の原告も同様だが、青島から乗せられた船の中ではじめて、日本軍人から「日華親善、東亜共栄のため」日本で労働に従事させられると告げられた。

原告は、花岡出張所では第一中隊第三小隊長(第二次連行があった後は第四中隊第一二小隊長)として強制労働に従事させられた。強制労働期間中、僅かな貧しい食事で激しい労働を強いられ、作業の進行が遅いと日本人監督によって暴行が加えられた。主に栄養失調から、原告の小隊所属者の半数以上が死亡し、原告も予定された作業量が終わらないのは小隊長の責任であるとして、日本人監督の福田金五郎に、荷物を運ぶ直径一〇センチメートル位、長さ二メートル位の丸太で左前腕を殴打されて骨折し、現在も左手の握力がほとんどなく、肘の間接の動きが困難である。

原告は、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日の蜂起に参加後、事件の中心メンバーの一人として花岡警察署に勾留され、取調中に拷問を受け、日本の敗戦後は、連合国の指示で東京裁判、横浜裁判の証人として残留し、中国人強制連行の実態を証言後、一九四八年(昭和二三年)三月に帰国した。

四 李克金(一九一七年一〇月九日生)

李克金は、国民党第一五軍第六四師団の班長として洛陽戦に参加したが、洛陽の落城で原告耿諄らとともに日本軍の捕虜となり、第一次連行の約三〇〇名と共に日本に送られた。

花岡出張所では、李克金は、中隊長として、大隊長である原告耿諄の指示、命令により、部隊毎に割り当てられた仕事を各人に振り分け、隊員に作業を実行させるとともに自分も作業をしていた。李克金の第一中隊は、四小隊に分かれ、八〇〜九〇人で構成されていたが、貧しい食事と粗末な宿舎にも関わらず、夜明け前から暗くなるまで、隊員を率いての苦役を強制された。

水たまりの現場も多く、積雪は一、二メートルもあったが、裸足に近い状態での労働であった。被告の補導員は、少しのことでも暴力を振るい、ノルマが達成できないと、「お前は怠け者だ。」と罵りながら李克金を殴打した。

李克金は、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日の蜂起に参加し、蜂起後逃げたが捕らえられ、警察に留置された後秋田刑務所に送られたが起訴はされなかった。李克金は、日本の敗戦後中山寮に戻され、拷問のため満足に歩けない状態で再び仕事に就かされていたが、同年一〇月、GHQが中山寮に入り、証人として残留を命じられ、横浜法廷で証言した後、一九四八年(昭和二三年)二月に横須賀から上海に着き、帰国した。

李克金は、一九九六年(平成八年)三月三一日に死亡し、遺言により、一九四八年(昭和二三年)三月四日に婚姻した妻である中澤一江が本件訴訟を受け継いだ。

五 原告李鉄垂(一九二二年五月一八日生)

原告は、三線連合ゲリラ大隊に所属し、一九四四年(昭和一九年)四月二〇日、正定北側の木庄での作戦展開中に日本軍に捕虜とされ、憲兵隊、東兵営を経て石家荘捕虜収容所に一か月ほど収容され、北京の西苑に連行されて一〇日ほど置かれた後、青島へ送られ、同年八月、第一次連行の約三〇〇人の一人として日本に送られた。

原告は、花岡出張所では、中山寮の周りを一週間ないし一〇日間ほどかけて開墾し、畑作りをさせられた後は、毎日少量の上にすぐに下痢を起こすような粗末な食事で、ほとんど休養もとれずに長時間にわたって排水溝を作る土木作業や、花岡川の付替工事に強制的に従事させられ、日々のノルマが達成できない限り帰寮できない日々が続いた。原告は、「早く帰ろう」と言おうとして、いつも言われていた日本語で「早く馬鹿野郎」と言ったために、被告の補導員に棍棒で十数回殴られたことがあった。冬には、水中の仕事の上、夏物の単衣の着物も破れたので、本件労働者は単衣の内側にセメント袋を巻き付けて寒さを凌ごうとしたが、補導員に発見され、服とセメント袋を脱がされて、一、二時間以上山上に放り出され、凍死しそうになった。

原告は、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日の蜂起に参加し、逃走したが捕らえられ、警察で取調中に拷問を受け、その後、秋田地方裁判所で、懲役六年の判決を受けたが、同年一〇月にGHQによって解放された。原告は、東京中野刑務所に移されてから、GHQの花岡出張所における強制労働についての事情聴取を受け、同所から中華民国大使館に通って仕事を貰っていた。原告は、一九四七年(昭和二二年)一二月下旬、船で帰国した。

六 原告孟繁武(一九二三年一月三日生)

原告は、八路軍排長であった一九四四年(昭和一九年)七月、阜平県梨樹溝の農家に病気療養のため身を寄せているところを日本軍及び傀儡軍の捕虜とされた。石家荘捕虜収容所に連行され、約八か月間病棟にいたため、同収容所に約九か月間収容されることとなり、その後、保定、北京の「西苑」を経て青島を出発し、同年八月被告花岡出張所中山寮に第一次連行の中国人の一人として連行された。

原告は、蜂起後に共楽館前で後ろ手に縛られたまま跪かされ、少しでも動くと棍棒で殴打されるという虐待を受けた。

原告は、第一中隊第一小隊に所属させられ、石の運搬作業中、足を負傷して医師の「診察」を受けたが、その内容は「治療」ではなくメスで傷口をこね回すという虐待行為であった。

原告は、一九四五年(昭和二〇年)一二月ころ、帰国した。

七 原告李紹海(一九二二年生)

原告は、山東省新泰県囲山区における抗日学校教師への宣伝工作で共産党に協力していたが、農暦四五年一月、日本軍の掃討作戦で捕まった。原告は、日本軍の占領する禹村の鉱山の便所に一か月近くも収容された後、泰安県の監獄に連行され、更に済南旧駅近くの大きな鉱石倉庫に移され、沢山の人々と一週間から一〇日間置かれた。原告は、更に青島に移され、第二次連行の中国人の一人として花岡出張所中山寮に連行された。

原告は、第三中隊第八小隊に入り、第一次連行の人たちとは別に排水溝を掘る作業をさせられた。一日に幅、深さ、長さ各一メートルの溝を掘り終わらないと、殴られたり、食事が出なかったり、帰るのが遅くなったりしたが、石が沢山混じる土はなかなか掘れず、掘った土石を運ぶ重労働のノルマを果たすのは非常に困難だった。夜明けとともに起きて終わるまで一日に一二〜一六時間使役された。抵抗しても酷く殴られるため、抵抗しようとする者もいなかった。原告自身は、蜂起前、仕事が終わらずに作業現場で二度殴り倒されたことがあった。

原告は、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日、蜂起に参加して逃走したが、捕らえられ、中山寮に戻された。原告は、日本の敗戦後、盲腸炎に罹り、秋田病院に入院したため、第一次帰国の人たちと一緒に帰国できず、一九四六年(昭和二一年)一、二月ころ、長崎から青島について帰国した。

八 原告趙満山(一九二五年生)

原告は、八路軍に商品を供給していたとして日本軍に逮捕された父親の趙義を買い戻そうと奔走しているうちに、自らも八路軍に通じていたと疑われ、一九四四年(昭和一九年)旧暦四月二二日、日本軍に逮捕され、趙義と共に、石家荘捕虜収容所、青島を経て同年八月、花岡出張所中山寮に連行された。

原告と趙義は、当初、一般の労働に従事させられた後、老人班が編成された際に一緒に老人班に編入され、山から薪を切り出して運搬する作業に従事した。

一九四五年(昭和二〇年)三月ころ、趙義が栄養失調から労働に耐えられなくなり、病舎に収容され、その時から原告も看護班に所属したが、病人には満足な治療も医薬品も与えられず、逆に食事の量を半分に減らされ、一旦病気になると死ぬ運命が待っているだけであり、そのため看護班の仕事の大部分は、毎日のように亡くなる同胞の死体焼却作業だった。

趙義は、空腹の余り、日本人監督の号令前に食事に手を付けたとして、日本人監督から激しく殴打されたことから急激に容態が悪化し、一九四五年六月中旬ころ死亡した。

原告は、同年一一月、花岡出張所を離れ、帰国した。

九 原告孟連其(一九二六年七月二四日生)

原告は、八路軍の兵士であり、一九四四年(昭和一九年)、華北省易県で日本軍に捕まり、石家荘捕虜収容所に連行された後、北京の西苑捕虜収容所に送られ、一か月余り置かれた後に石家荘捕虜収容所、西苑捕虜収容所、青島を経て第一次連行の中国人の一人として花岡出張所中山寮に連行された。

原告は若かったので、補導員の身の回りの雑役をさせられ、「子路」(ジロウ)と呼ばれていた。仕事は、補導員がまだ寝ているうちに起きて洗顔用の水を汲み、火を起こし、夜は補導員が寝てから次の日に使う薪や小便壺を用意させられたので、熟睡できないうちに起きなければならない毎日であった。食事は、腹が半分も満たされないドングリ粉の饅頭と、底が見えるような中身のない粥だけで、北京で支給された夏物の薄い着物一枚を着て、ボロボロの木造の中山寮に寝起きする生活は、動物以下であった。

補導員は何かにつけ、すぐ暴力をふるい、仕事が遅いと言っては殴るので、餓死で死ぬ人、凍死で死ぬ人、殴られて死ぬ人と、毎日死人が出ない日はなかった。あまりに死人が出るので、中国人の間で、このままではみんなが死んでしまう、どうせ死ぬならば潔く蜂起して死のうとの気持が起こり、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日に蜂起した。原告は、蜂起後山に逃れたが、捕まって、起訴されないまま二か月間警察署に監禁され、日本の敗戦後になって中山寮に戻されたが、同年一〇月、GHQに解放され、一一月に帰国した。

一〇 楊建庭(一八九五年生)

楊建庭は、中国共産党地方抗日幹部であったが、一九四四年(昭和一九年)春、河北省安平県白羅村において党幹部会議中に日本傀儡軍に逮捕され、安平県内の施設に収容された後、石家荘石門捕虜収容所、北京の捕虜収容所を経て同年八月、花岡出張所中山寮に連行された。

楊建庭は、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日の蜂起後、花岡市内の共楽館前広場で警察、群衆から暴行、虐待を受け、同年七月七日ころ死亡した。

楊建庭の相続人は、原告楊彦欽のみである。

一一 孫基武(一九一〇年生)

孫基武は、江蘇省豐県中学校長であったが、一九四五年(昭和二〇年)一月ころ、抗日活動を理由に日本軍憲兵隊に身柄を拘束され、その後、徐州の憲兵隊で一〇日間、済南に約一週間、青島の況泉体育場に約二〇日間拘束され、同年四月、第二次連行の他の中国人と繋がれたまま乗船させられて、五月に花岡出張所中山寮に連行された。

孫基武は、十分な食事や休養もないまま排水溝を掘り、水中での労役に酷使された。一貫して教職にあったため、肉体労働に慣れておらず、少しでも仕事が遅れると補導員に殴打されるという苦痛の日々を送った。

孫基武は、一九四五年(昭和二〇年)六月三〇日の蜂起後、逃走したが捕らえられ、花岡市内の共楽館前広場に置かれ、多数の中国人と共に警察、群衆に殴られ、同年七月二日か三日に虐殺された。

孫基武の家族は、現在、長女である原告孫力とその兄弟姉妹のみである。

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